停止と発展

 例のごとく「別役実のコント教室」を読んでいる。
 せりふや脚本の地の部分で、劇の進行が止まってはいけない。では具体的に何を指すかというと、せりふで説明をしてはいけないということらしい。観客が役者に共振・共鳴することによって演劇を体験するのであって、役者の言葉を理解するというわけではない。
 まぁこれがどうなのかということは横に置いといて。

それからせりふでむずかしいのは、「発展的であること」。せりふというのは、発展的でなくてはいけない。これは前回お話した、二元対立を避けましょう。会話の平行移動はやめましょうということと同じです。一番高度なのは、弁証法的な発展型で、正・反・合のらせん的上昇。ベケットの『ゴドーを待ちながら』なんか分析しながら読むと、ある程度このメカニズムはつかめるかもしれません。

「二元対立=停止」というのがちょっと心に留まった。なるほど二元対立が続くかぎり、変化しないわけだ。
 これは物語の世界観とかにも当てはまりそうだ。永遠に解決しそうにない対立がある限り、その物語は寿命が長くなる、と。
 ただこれでは盛り上がりに欠けるので、登場人物が変化し、そして時が満ちたら引退すればいい。それでとうとう登場人物がいなくなったら、(経典などにみられる)解釈の違いが残るのかな。うーむ、こうなると物語の寿命というより、物語のミイラっぽいな。