「プロトタイプ」

第二に、記憶と再生にあたっては、「カテゴリー」や「プロトタイプ」の役割が大きいのではないかということだ。私の確信しているところでは、そもそも記憶の再生というのは、「外からやってきた情報が自分に似たカテゴリーやプロトタイプをさがしだす」ということなのである。(知の編集工学より)

 アーキタイプについて今まで書いてきたけれど、これは人間の認識外に在るのだから、記憶とは関係ないわけだ。
 たとえばゲームブックというものを覚えてもらうには、ゲームブックのプロトタイプとは何か、ということについて考えなければならないな。

プロトタイプは「類型」ということで、たとえば椅子を知らないデザイナーが椅子のデザインをするにあたっては、まず椅子というプロトタイプを知る必要があるように、何かを開発したりするときに先行して「類型」をつくっておくことをいう。記憶や再生にはこの「類型」が必要なのだ。

火吹山の魔法使い」を代表する初期のゲームブックの「プロトタイプ」は、「ロールプレイングゲーム(いわゆるTRPGのほう)+テキスト」であっただろう。スティーブ・ジャクソンイアン・リビングストンなどのゲームブックの作者と、故・多摩豊氏、安田均氏のウォーロック制作者がこれに当てはまる。
 TRPGのことを知らない人たちにとってみれば、ゲームブックの「プロトタイプ」は「見たことのないゲーム+本」であったり、「ドラゴンクエスト(などのコンピュータRPG)+本」というように受け取られただろう。私はここに入ると思われる。つまりゲームブックのブームがあったころは、作者と読者とではゲームブックの受け取り方が異なっていたと思われる。
 初めてサウンドノベルが登場したとき、選択肢があるのを見て、「ゲームブックみたいだな」という印象を持った人もいると思う。そのプレイヤーはサウンドノベルのプロトタイプを「コンピュータゲーム+ゲームブック」と認定したわけだ。
 もしゲームブックをやったことのない人が「火吹山の魔法使い」をやってみたら、その人は「コンピュータRPG+本」という印象を持つのではないかと思う。また「展覧会の絵」なら「ノベル系ゲーム+本」と受け取られるような気がする。
 D&Dの紹介の一方法として誕生したゲームブックが、多くの人の「受け取り」を経てさまざまなかたちに変化していった。私は多くの人にゲームブックを知ってもらいたい。そして多くの人に知ってもらうことによって起きる見解の相違が、面白い方向に転がってくれないかと期待している。そうなれば「ゲームブックからいろいろなイメージが湧き上がるね」って思ってもらえるだろう。